サイトのTOPを開く

  マイコンの経歴
 昔はパソコンといわずマイコンという方が一般的だった
 マイコン=マイクロコンピュータ=マイクロプロセッサーを使ったコンピュータ
 マイコン=私のコンピュータ 両方の意味をあわせて使われた
パソコンという呼び方が出てくると、マイコンはマイクロプロセッサー(CPU・MPU)の意味に使われるようになってきた。

1966年 パソコン以前
 大学4年 すでにコンピュータ(電子計算機という言い方が普通)は工学部に入っていて、FORTRANという言語が使われていた。工学部以外の学生を対象に1週間の講習が開かれ初めてコンピュータに関わった。
トスバック3400(東芝)というマシンだったと思うがプログラムはシートに記入して、オペレータにタイプしてもらって紙のさん孔テープが作られ、機械はそのテープを読みとって実行するようなシステムであった。記念にその紙テープをもらって帰ったが、教員になったらこのようなコンピュータにもう関わることもないだろうと寂しい気持ちであった。
 1974年頃、電卓がすでに出始め、職場にキャノーラというプログラム電卓が入った。補助記憶装置として名刺2枚分ぐらいの磁気カードが使えデータやプログラムを保存できた。プログラムは200ステップのアセンブラのような言語で入力するものだったが1クラス9科目の成績集計ぐらいはできた。技術の進歩で個人でもてるコンピュータができてきそうな時代の流れ、まもなくTVゲームが流行するなどマイコンといえるものが作られるようになった。
 マイコン博士などという4ビット機が発売され生徒でそれを買ったものがいた。できることはたぶんTVゲーム。その後8008、8080、8085、Z80、6800、5201、6802など8ビットのCPUが次々とつくられ、ベーシック言語などを搭載して8ビットパソコン(マイコンという言い方が一般的)が発売されるようになって、個人で使え、買えるコンピュータが出回るようになってきた。
 1980年元旦の新聞はマイコンを大きく取り上げ80年代はパソコン時代と大きな特集であった。
正月帰省したおり、学生時代の友人W氏がすでにPC8001を使っているのを見せてもらい、強く興味をもち買うぞと思った。
機械購入の金がたまるまではまずBASICの本を買ってBASICの勉強。FORTRANの流れを汲むBASICはその名の通り非常にわかりやすい言語だった。
1980年 パソコン購入
1980年 パソピア(z80/5MHz64kb)+グリーンディスプレー;カセットテープ
 本体だけで168000円もした。ほとんどN88basic互換のT-BASICとROMカセットを入れるとOA-BASICも使える個性的マシン、前もってBASIC言語を勉強していたため購入当日から実用プログラミングにかかれた。まずは成績処理。1981年には +FDD(280kb2ドライブ)14万円もした(純正のものは30万円)。
 32kbのベーシックは逆アッセンブラで解析もできたので、機械語から一部ベーシックのサブルーチンを使うとか、骨の髄まで利用できた。前〃任校ではこれを使って成績処理システムを作り上げた。わずかなメモリーも有効に使えば年間の考査70回分の200人のデータを管理できた。
機械語領域に1バイトで1つの点数を記憶するなど、昔はメモリーを極めて有効利用できた。
 アッセンブラでサブルーチンを書くようになるとZ80よりも 6809や6502の方がより優れたCPUであることがわかったが、そう次々他の機械を買えるほどパソコンもやすくなく。FM8やその後継FM7などほしいなーで終わってしまったが時代は16ビット機へと向かいつつあった。
 パソコンもOSを積むようになって8ビット機ではCP/M(デジタルリサーチ社)が圧倒的シェアを誇り、CP/M上で使うMbasic80やアッセンブラのMacro80、Link80なども手に入った(マイクロソフト社製)。これらに移植したプログラムは8080互換CPU搭載機では機種を選ばず使え、当時オアシスというワープロでCP/Mが使える機械では、漢字を使った成績処理も出来たのには感激だった。(8ビットパソコンでは満足なワープロソフトはなかった)
1983年頃 ソニーSMC777c(z80/64kb) 確か14万ぐらい+14インチカラーデスプレー(5万ぐらい)
 それ自身ほぼCPM互換機、CP/Mを購入すれば完全なCP/Mマシンで色々おもしろい機械だったが仕事には、やはりTbasicのパソピアが使いやすかった。これは家でのゲームやお絵かきなどのホビー用となった
1985年 PC9801VM2(8086/384kB)にメモリー追加しながら
いよいよ16ビットマシンの購入。まだN88basic86がOS代わりをつとめる環境、16ビットOSが MS−DOSになるのかCP/M86が主流になるのかはっきりしなかった。T_BASICの成績処理システムをN88BASICに移植さらに機能強化、16ビットの機械語サブルーチンを使った、50人X4クラス(200人)の成績100項目、テスト140回を管理する成績管理プログラムは現在の高速パソコン+表計算よりも桁違いに速かったが、プログラムの保守ができる人が限られる中で、より簡便な表計算ソフトへ徐々に移行していくことになるのだが、当初は8ビット機と比べての便利さに酔いしれたものであった.
この機械はMS_DOS環境へそのまま移行していった。
MS-DOSの時代
86年頃 VM2にもHDDを追加80MB、16ビットOSはMS-DOSの優勢勝ち、マシンもDISK-BASICから MS-DOS上でいろいろなアプリケーション(ワープロ一太郎やLOTUS123、basicもMS−DOS上のN88BASICやBASCOM(ベーシックコンパイラ)を使うようになってきた。
1988年頃 PC9801RA(386/8MHz)をMSDOS環境で使用。中古のVM2を追加購入。職場と家の2〜3台体制始まる
windows3.1
 以後購入のPC から本格的にWINDOWSに切り替え、9801RAもWINDOWS3.1で使用するようになった。windows3.0は8086機でも使えるウインドウだっが、知人から手にいれ使ってみたが、遅くて使い物になる代物ではなかった。windows3.1は確か386以上でプロテクトメモリーを使うものでそれなりに便利、急速に普及し出してきた。
 成績処理をロータス123(win)に切り替え。このころからパソコンの値段も安くなって来て1年半ぐらいの間隔で新機種を購入。3台の古い物から順に1台ずつ買い換えていくような状態が始まった。
 プレサリオ433(386sx)win3.1プリインストール+一太郎5付き)購入し、まもなくwin95にしたが3年前に引退、
 アイワPC466(486DX2)もwin95まであげたが一昨年春(1999年)引退
win95〜98〜ME〜XPへ(MS−WINDOWS全盛期) 他の独創的OSもじわじわと胎動、 マイクロソフトの寡占体制は今後どうなるか。携帯とパソコンNET時代は携帯に傾くのか棲み分けか?
 96年春win95搭載のPC9821XB/10購入、 (k6-2/333に後に補強)は2000年winMEにアップグレードできないことがハッキリしたので同年秋引退 (他家でメイルマシンとして第二の人生)
 97年購入DEC3100を主力機として使用(メモリー増設96M・HDD増設) 2000年春ベアボーン(セレロン500、256M)機の製作で、DECも(MEにアップしてメモリー補強)娘に払い下げ合わせて家庭内LAN(ピュアツウピュア)で接続。
 2000年秋から冬 妻用にノート(ThinkPadセレロン500)、pc9821の代わりに AMDduron600(メモリ320Mb)機製作、MEアップグレードときて現在のPC構成に至る。
2004年1月duron機のCPUをアスロン900MHz、メモリ−も更に32MB追加、USBも2.0を4ポートPCIスロットに増設、
2003年12月に予備機としてIBMノートPC(windowsXPのThinkpadG40、セレロン2G、HDD20GB、メモリー256kb+USB2.0外付け40GHDD+MO640+CDRWドライブ)、妻のThinkpadにもUSB〜SCSI 外付け10GBx2追加し3台とも外付けHDDでシステムのバックアップ体制を取った)。タワー型アスロン900機はセレロン2Ghzのノートと比べても速度的にも見劣りしない。さすがに妻のセレロン500ノートはこの2台に比べると大分見劣りするようになってきた。 

   

inserted by FC2 system